みなさんは学校で歴史の授業を受けたと思います。

そのなかで、「この歴史の出来事に実際に立ち会えたら面白いのに」と思ったことはありませんか?

しかし、昭和や大正、さらには明治時代からご存命のシニアの中には、

誰もが知っている歴史上の大事件を、当事者として体験している方がいる可能性があります。

そこで今回は、歴史の教科書に載っている事件やできごと、

さらには現代ではみんなが当たり前のように知っている事柄のなかから、

現在でもご存命のシニアが体験した、立ち会った可能性があるものをご紹介します!

ぜひ最後までご覧ください!

70歳以上の方が体験したかもしれない、1950年代のできごと

サンフランシスコ平和条約に調印する吉田茂首相
引用:ウィキペディア

朝鮮戦争の勃発

1950年、朝鮮半島で現在の北朝鮮と韓国との間に戦争が勃発しました。

これを朝鮮戦争といいます。

朝鮮戦争はアメリカやソ連(現在のロシア)を巻き込んで大規模化しました。

この戦争はいまだに集結しておらず、現在は休戦中という扱いになっています。

朝鮮戦争に必要な兵器や武器を輸出することで、特需と呼ばれる好景気が到来し、

敗戦後の日本の産業・経済は成長しました。

皮肉にも、戦争の被害を戦争によって回復したのです。

サンフランシスコ平和条約の調印

サンフランシスコ平和条約とは、

太平洋戦争において敗戦国になった日本が、アメリカの支配下から脱却し、

国際的に独立国として承認され、主権を回復した条約です。

1951年の出来事でした。

しかし、独立国としての主権を回復したのちも、

沖縄と小笠原諸島は実質的にアメリカの統治下におかれました。

当時の首相は吉田茂首相で、現在政界で活躍しておられる麻生太郎さんのおじいさんです。

自衛隊の組織

現在も日本の防衛にあたっている自衛隊が組織されたのは、1954年の出来事です。

終戦後には、日本は軍隊を持つことが禁止されましたが、

国内の防衛や治安維持を目的に警察予備隊が結成されました。

それがのちに自衛隊になったのです。

国際連合への加入

現在では世界のほとんどの国々が加盟している国際連合、通称「国連」ですが、

その国連に日本が加入したのは1956年のことでした。

先に紹介したサンフランシスコ平和条約で日本の独立が承認されたことにより、

日本は独立国として国際連合に加入することができました。

国連の中には、ユニセフと呼ばれる世界的に教育や文化を保護する機関や、

UNHCRと呼ばれる難民を保護する機関が存在し、

世界の調和と平和のために活躍しています。

東京タワーの建設

引用:ウィキペディア

みなさんご存じ、東京タワーが完成したのも1950年代、1958年のことでした。

今や東京の欠かせないシンボルとなっている東京タワーは、

もう60年以上も東京の街で輝いているのです。

写真は1961年に撮影されたものですが、

当時は東京タワーの周りには現在のような都市景観は見当たらず、

歴史の流れと東京の発展を感じることができますね。

ちなみに、東京スカイツリーができるのは2012年です。

映画『ゴジラ』シリーズ第一作の公開

引用:ウィキペディア

特撮映画として莫大な人気を誇った映画『ゴジラ』シリーズ。

その第一作目が公開されたのは1954年11月のことでした。

CG技術もない時代に、あの手この手を使って大迫力の映画を作り上げた製作陣のみなさんには

敬意を表さずにはいられません。

『ゴジラ』シリーズ最新作として、2016年に『シン・ゴジラ』が公開されました。

なんとこの作品は本編シリーズとしては12年ぶりの最新作で、

本編シリーズ29番目の作品となりました。

日本初のスーパーマーケットが開店

今や生活に必要不可欠となっているスーパーマーケットも、

日本で初めて開店されたのは1953年のことでした。

この時開店したスーパーマーケットは「紀ノ国屋」。

1910年から青果店として営業していましたが、

スーパーマーケットととして営業を開始したのはこの時が初めてでした。

紀ノ国屋は現在でも高級スーパーマーケットとして存在しています。

80歳以上の方が体験したかもしれない、1940年代のできごと

引用:http://historyjapan.org/pacific-war-history-contents

米の配給制と砂糖などの切符制

1940年代前半には、日中戦争が長期化し、日本国内の物資も枯渇してきました。

そのため、米はそれぞれの家族の人数などに基づいて決められた量が配られる配給制に、

砂糖やマッチ、木炭などは決められた枚数だけ配られた交換券で交換する切符制となり、

生活必需品を自由に手に入れることができなくなりました。

「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」という標語に見られるように、

国民全員が貧苦に耐え、戦争を生き抜いた時代でした。

二度の原子爆弾の投下、終戦と玉音放送

1940年代の出来事として、最も取り上げなければならないのは終戦でしょう。

1945年8月、日本は二度の原子爆弾による攻撃を受けました。

8月6日に広島、8月9日には長崎が原子爆弾により被爆し、

広島では約14万人もの人が死亡したといわれています。

この被害をうけ、政府はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、

太平洋戦争での敗北を喫しました。

敗戦が確定した8月15日、昭和天皇の玉音放送がラジオ放送され、

国民は地に伏したといいます。

戦争の記憶は、決して忘れてはならないものです。

GHQ最高長官マッカーサー来日

太平洋戦争で敗北した日本は、アメリカの統治下におかれることになりました。

ここで日本の統治を担当した組織がGHQ、連合国軍 最高司令官 総司令部です。

このGHQの長官であったのが、

サングラスをかけてパイプをふかす姿が印象的なダグラス・マッカーサーです。

彼は日本統治のため神奈川県にある厚木飛行場に降り立ちました。

身長が183cmと、当時の日本人にとってはかなりの高身長で、

その姿を見た人は威圧感や恐怖感があったといいます。

サンフランシスコ平和条約で独立するまで、

このマッカーサー率いるGHQによって日本はアメリカの支配下にありました。

闇市の出現

引用:https://www.jiji.com/jc/d4?p=syo118-photo1891&d=d4_oldnews

敗戦直後、日本は空襲により各地が焼け野原となり、

物資は枯渇していたため、物を買うこともままなりませんでした。

そのため、各地の焼け野原で政府非公式で物を売り買いする露店商が現れました。

それが闇市です。

ぼったくり商品や詐欺、買春なども横行したため、

本来ならば政府はこれを規制しなければならないのですが、

闇市がなければ民衆は生活することができなかったので、事実上の黙認となりました。

いかに敗戦直後の日本が貧しかったかがわかります。

最後に

最後に株式会社whickerが提供する『whicker まごとも』をご紹介します。

『whicker まごとも』とは、

地域の学生が高齢者のご自宅や介護施設に訪問し、

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また、『whicker まごとも』公式インスタグラムでは、

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今回引用した資料出展:ウィキペディア昭和の街角 写真特集太平洋戦争とは何だったのか